浜松城が出世城になるまで【浜松の歴史をしらべてみた】
徳川家康が築いた浜松城は、 天下統一への足がかりとなった「出世城」です。
若き日の家康の野望とロマンが薫る浜松城をご紹介します。
この記事の見出し
浜松城の前身は引馬城
浜松城が築城される前は、引馬城が浜松の拠点であり、今川貞相が15世紀ごろに築城したという説が有力。
この地を支配していた大河内貞綱が今川氏に敗れると、今川氏親(今川義元の父)配下の飯尾氏が支配するようになり、飯尾乗連、飯尾連竜が城主となります。
しかし、飯尾連竜は、今川氏真(今川義元の子)に殺されてしまいます。
その後、連竜の未亡人お田鶴の方が中心となり、飯尾氏の残党を指揮し、この混乱に乗じて進出してきた家康に対抗します。
家康はお田鶴の方に降伏を進めますが、これを良しとせず攻めてくる家康に奮戦をしたが、次女とともに討死にしてしまいました。
このお田鶴の方を祀ったのが「椿姫観音」で、今も浜松城近くにのこっています。
徳川家康の浜松城としての出発
永禄11年(1568年)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康。
家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に目をつけます。
眼前には当時戦国最強と言われていた武田信玄がおり、まず信玄からの侵略に備えなければならなかった家康は、元亀元年(1570年)、岡崎城を長男の信康に譲り、引馬城を浜松城と称改し、城域の拡張や改修を行い、駿遠経営の拠点としました。
このとき家康が行った浜松城の改修時は、土作りの城であり、石垣や瓦ぶきの建物はなかったとされています。
また引馬城を改称した理由は、「馬を引く」のは負け戦を意味するため縁起が悪いというとで、地名を「浜松」に改め「浜松城」としたと言われています。
出典:城ナビ
浜松城の築城様式は「平山城」です
徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。
三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。
「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。
徳川家康が、浜松城を拠点にしていたのは29歳~45歳までの17年間。
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572年)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。
家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための我慢・試練の時代だったといえ、徳川家臣団が試練を乗り越え最強の軍団になるための時期だったのかもしれません。
そして、最後にはさらなる苦難ものりこえ、徳川幕府を開くんだから、出世城の本質はここかもなぁ
徳川家康退去後の浜松城
徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。
歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。
出典:浜松市立図書館
明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました。
出典:Wikipedia
三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572年)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。
城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。
そう、かの有名な「徳川家康三方ヶ原戦役画像」のことです。
出典:Wikipedia
合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。
崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。
浜松城歴代の城主と出世
浜松城には、藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。
在城中に幕府の要職に就いた者も多く(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)、浜松城は「出世城」と言われるようになりました。
なかでも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦。
天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと言われています。
浜松城データ
曲輪構成 | 梯郭式 |
---|---|
縄張形態 | 平山城 |
標高(比高) | 37 m( — ) |
城郭規模 | 内郭:— 外郭:— |
天守縄張、天守形式 | 望楼型 |
天守の階数 | 3重4階(地上3階、地下1階) |
天守の種類 | 模擬 |
築城主 | 今川貞相 |
築城開始・完了年 | 着工 永正年間(1504年〜1521年) |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
主な改修者 | 徳川家康 |
主な城主 | 堀尾氏(12万石)、松平乗寿(3万5千石)、青山宗俊(5万石)、松平信祝(7万石)、井上正経(6万石)、水野忠邦(6万石)、井上正直(6万石) |
遺構 | 石垣、天守曲輪 |
指定文化財 | 市史跡 |
復元状況 | 模擬天守、天守門 |
現在の浜松城
浜松城天守閣
昔の石垣の上に新天守閣が鉄筋コンクリートで再建されています。
3階建ての浜松城は、展望台からは浜松市を一望できることはさることながら、南は遠州灘、晴れた日には富士山まで見ることができます。
1〜2階には歴代の城主や浜松城と城下町の模型、武具なども展示されています。
地下には、籠城の際に水を確保するための井戸が残っています。
浜松城の石垣
自然石を上下に組み合わせて積む「野面積み」が有名です。
400年の風雪に耐えた堅固な石垣で、当時の面影を残しています。
天守門
天守台東にある櫓門。
平成26年3月に復元されました。
浜松城公園
浜松市の中心部にありながら、 豊かな緑に囲まれた浜松城公園。
浜松城を中心に、日本庭園、中央芝生広場など、 市民の憩いの場として親しまれています
入場料やアクセス方法の確認をしておきましょう。
入場料(個人)
大人(高校生以上)200円。中学生以下は無料です。
開館時間は、午前8:30~午後4:30
休館日は、年末の12月29日・30日・31日
アクセス
■遠鉄バスご利用の場合
バスターミナル(1)(13)乗り場発のすべてのバス
「浜松城公園入口」下車→徒歩 約6分
■タクシーご利用の場合
浜松駅北・南口タクシー乗り場より乗車約5分
■マイカー、大型バスをご利用の場合
浜松ICより約30分
浜松西ICより約30分
浜松浜北ICより約40分
駐車場について
浜松城公園駐車場(259台/無料)または近隣の民間駐車場をご利用下さい。
大型バス駐車場あり。
大型バス駐車場(18台/無料/予約)の空き状況、ご予約等は公園駐車場(053-457-0088)へお問い合わせ下さい。
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これが戦国時代というべきなのか。