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【2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」浜松・井伊直虎ゆかりの地①】名勝庭園と井伊家が祀られている龍潭寺

龍潭寺 庭園

2017年1月から始まるNHKの大河ドラマ「おんな城主・直虎」、放送が待ち遠しいですね。
浜松の引佐町井伊谷(いいのや)の地で、浜松城主徳川家康とどのようにかかわり、どんな物語が繰り広げられるのでしょうか。

今まであまり大河を観ていなかった私、今回は地元が舞台で、しかも主役が女性‼
そして他にも素敵な俳優さんが出演されるので注目しています。

少しでもドラマを楽しめるように、放送前に直虎ゆかりの地をあちこち観光してきました。

まずは、直虎の生涯と直虎をはじめ井伊家の菩提寺『龍潭寺』をご紹介します。

 

井伊直虎と龍潭寺の関係

井伊家の始まり

時代は平安時代、井伊家の始まりまでさかのぼります。

1010年、直虎のご先祖の共保(ともやす)は嬰児の頃、もともと昔は龍潭寺の敷地内にあったとされている渭伊神社に参拝にきていた村櫛の志津城主・藤原友資(ともすけ)に敷地内の井戸の傍らにいたのを見つけられました。
7歳まで井伊谷で育ちましたが、その後藤原友資(ともすけ)の養子になりました。
成人した共保は井伊谷に戻り、地名にちなんで井伊を姓にして井伊氏を名乗るようになり、この井戸にちなんで旗印を井桁家紋を井戸の傍らに咲いていた橘の花にしたといわれています。

これが井伊氏の始まりで、龍潭寺は平安時代より井伊家の菩提寺でした。

共保が生まれたと伝えられている『井伊氏元祖共保出生の井戸』は、龍潭寺を出て、南に徒歩約2分行くと田んぼの中に!?見ることができます。

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こちらの井戸については、次回記事に詳しく紹介します。

 

直虎を支えたキーマン・南渓端聞(なんけいたんぶん)和尚

井伊氏の初代・共保から時代は経て、戦国時代。
井伊氏20代目は、直虎の曾祖父の直平(なおひら)でした。

直平には子どもが何人かいて、長男は直宗(直虎のおじいさん)。
次男に生まれた南渓和尚は、幼いころから出家させられ、そののち、龍潭寺の第2世住職になりました。
直虎にとっては大叔父。
この方が、直虎の出家時代、女城主時代を支えます

 

直虎とは?どんな生涯だったの?

井伊家といえば江戸幕末の大老・井伊直弼が有名ですが、直虎がいなければこの方は誕生していませんでした。
滅亡の危機の井伊家を救った井伊直虎について、簡単に説明します。

 

井伊氏22代目・直盛の1人娘、井伊氏の姫様として誕生

昔の女性の記録はほとんど残っていないため、生年月日や幼少時の名前などは不明です。

父・直盛のいとこの直親(幼名/亀之丞)と結婚の約束をしていました。

しかし、直親の父と叔父が今川義元に謀反の疑いで殺害され、さらに子どもであった直親も命を狙われたので、直親は家臣と信州のお寺に逃亡。
姫様はいいなずけの直親の帰郷を待ち続けましたが、何年たっても戻ってこないため、ついに姫様(直虎)は出家を決断しました。

 

龍潭寺で出家し、次郎法師となる

僧侶となった姫様は、龍潭寺の住職・南渓和尚より『次郎法師』と名付けられました

龍潭寺9世住職の祖山(そざん)和尚が1730年に記した井伊家の歴史書「井伊家伝記」によると、

『次郎法師は、女(をなご)にこそあれ井伊家惣領に生候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは無是非、南渓和尚、御付被成候名なり』

 

「※おおまかな意味は…次郎法師は女であるけれど、井伊家の跡継ぎとして生まれたので、井伊家宗主の通称「次郎」という俗名と「法師」という僧侶の名をとって、次郎法師と南渓和尚が名付け出家させた」

このような記述が残っています。

次郎法師として過ごしていた20歳の頃、11年ぶりに直親と再会しますが、出家の身で結婚することができず、直親は父・直盛の養子となり家臣の娘と結婚しました。

戦国の世の中、直虎の父・直盛、曾祖父・直平、元いいなずけの直親が相次いで戦死し、井伊家に残されたのは、次郎法師(直虎)、南渓和尚と元いいなずけの子ども直政(幼名/虎松)
そして、井伊家を継ぐ男子は、若干5歳の『直政(幼名/虎松)』のみ。

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井伊家を守るために、還俗して城主になる決断

次郎法師(直虎)は、井伊領を守り、井伊家の唯一の跡取り『直政(幼名/虎松)』を当主として育てるために、南渓和尚と話し合い、まずは還俗し自分が井伊家城主として『直虎』と名乗り、直政の後見人として井伊谷城で政治を取り仕切りました。

しかし、その後、駿河・遠江を支配していた今川氏にひそかに通じていた家老・小野但馬守の策略で井伊領を支配され、ついに井伊谷城を出ることになってしまいました。
直虎は、直政(幼名/虎松)を連れて、龍潭寺の松岳院(現・仁王門前あった)に身を寄せ、祐圓尼(ゆうえんに)と名乗りました。

幼少の直政(幼名/虎松)は、まだ8歳。命を守るためにさらに愛知県の鳳来寺に預けられるなどしたそうです。

鳳来寺houraiji1(出典:Wikipedia)

戦国時代の戦乱、井伊領は、すぐに徳川家康に攻められ支配されたり、武田軍に攻められたりして(三方原の戦い)領地争いの渦中にいました。
祐圓尼(直虎)と南渓和尚は、龍潭寺にて常に井伊氏の復活について考えていました。

 

徳川家康との関わり

勢いのある徳川家康に支持することに決めた二人は、まず直政の母の再婚相手で徳川家臣の松下一族(現浜松市南区頭陀寺付近を拠点)に井伊家の跡取り・直政を養子に出しました。
そして、松下家の力を借りて、直政を徳川家康に引き合わせるよう、ある策略を考えたのです。

祐圓尼(直虎)は、家康にお目見えする機会を得たとき、少しでも直政(虎松)が家康の目に留まるように、直政(虎松)に目立つような新しい着物をあつらえたそうです。

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家康の趣味の初鷹野(その年の最初の鷹狩り)で、ついにお目見えがかなった直政は、家康に気に入られ、浜松城に連れていかれました。
家康は、直政の父が井伊直親で、家康に内通しているといって今川氏に殺害されたことを知り、直政を家来にしました。
直政は、家康から『万千代』の名と井伊谷の領地が与えられ、家臣として大活躍しました。

 

直虎の晩年

祐圓尼(直虎)は南渓和尚が開山した自耕庵(じこうあん)で晩年を過ごしました。

女性であったため、直虎について書かれている文献はほとんど残っていません。
そのため、晩年もどのように過ごしたのか、これ以上詳しいことはわかっていません。

自耕庵(じこうあん)は明治に入り、住職が直虎の戒名から妙雲寺と改名しました。
最近になって(2015年11月、2016年1月の本堂整理の時)、妙雲寺で南渓和尚と直虎の位牌や南渓和尚の肖像画が相次いで見つかりました。
今まで一般公開していなかった妙雲寺ですが、土日・祝日限定でお墓と位牌、肖像画の公開をしています。

この妙雲寺もぜひ訪れておきたい直虎ゆかりの地ですね。

 

滅亡しそうになった井伊家を復活させ、万千代(直政)の出世を見届けた祐圓尼(直虎)は、47年の生涯を終えました。
龍潭寺にも、直虎のお墓があり、結婚で結ばれるはずだった直親のお墓と並んでいます。

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次のページでは、庭園が素晴らしい龍潭寺訪問記です。

 

 

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この記事を書いたひと

りこ

りこ

浜松在住歴30年、3人の子育て中の40代主婦です。

パン屋さん・ケーキ屋さん・和菓子屋さん大好き!
お出かけついでに立ち寄ることがささやかな楽しみです。

長年住んでいても、浜松は新発見ばかりです。
子どもとお出かけして出会った、浜松の「楽しい場所」・「人」・「おいしいもの」をお届けしていきます。