徳川家康を巡る情景3「引間城から浜松城へ」
歴代城主の多くが、後々江戸幕府で重役に抜擢され、出世城とも呼ばれる浜松城。
今川勢力下で整備された引間城を基礎として、浜松城が築城されました。
この城は、引間城・引馬城・曳馬城と三つの名称がありますが、名称は「引間城に統一」されています。
引間城の東には引馬宿(現在の中区早馬町から八幡町一帯)がありました。
鎌倉時代には存在が知られ、室町時代は多数の建物が建ち並んでいた様子が、文献資料からうかがえます。
地名を城名に使用されることが多いですが、建てられた城の町名が「引間町」だったころから、お城の名前を引間城にしたようです。
浜松市博物館文芸員の方から伺ったご説明も交えながら、今回は徳川家康を巡る情景3「引間城から浜松城へ」をお送りします。
この記事の見出し
浜松城の前身、「引間城」
引間城は、徳川家康が整備した浜松城の前身とされる城郭です。
東西120m・南北150mほどの敷地を貼りや土塁などによって4分割した構造です。
現在は一角に元城町東照宮が建立され、境内の北東隅には土塁が残存しています。
引間城の周囲には、江戸時代に椿屋敷・蛇屋敷と呼ばれる区画があり、引間城の時期に屋敷地があったことがうかがえます。
令和元年8月から、浜松城三の丸で行っている発掘調査で、堀の跡が確認されました。
北側の堀の深さは2.4m以上、西側の堀は2.0m以上の深さです。
出土した土器の年代から、浜松城を築く前にあたる引間城の堀にあたる可能性が考えられているそうです。
西側の堀には人工的に埋められた痕跡も見られ、戦国時代の「引間城」から江戸時代の「浜松城」へと移り変わる様子を知ることになったそうです。
1568年(永禄11年)、今川方の拠点であった引間城を攻め落とした徳川家康はこの辺りの地名が「引馬」という名称だったこともあり「馬を引く」という名前は負け戦を意味するため、縁起が悪いということで、地名を「浜松」に改め、さらに城を大幅に拡大して浜松城を築きました。
引間城の跡には米蔵十数棟が建てられたといわれています。
戦国時代の初期、この地では、尾張・遠江に勢力を伸ばしていた斯波氏と今川氏が激しく攻防していました。
永正13年(1516年)駿府城の今川氏親は、斯波氏の家臣だった引間城主、大河内貞綱を攻め落としたことにより、遠江を完全制覇します。
その後、永禄11年(568年)引間城を奪うことに成功した家康は、浜松城の築城に着手。
引間城は、広大な浜松城の一郭として取り込まれていきました。
参考文献:2019年10月15日報道発表 浜松市 市民部 文化財課
400年の風雪に耐えた「浜松城の石垣」
浜松城は今川勢の手により造られた引間城を基礎としています。
堀尾吉晴による石垣と茅葺建物を備えた東向きの城郭へ改造され、江戸時代の譜代大名による三の丸の整備と、南向きの城郭への改築など、幾たびかの変更が行われました。
江戸時代初めの整備によって、浜松城の面積は広がり、東西600メートル、南北650メートルの城郭になりました。
家康は浜松城に17年間過ごしますが、家康在城当時は石垣や天守閣などがある城ではなく、湿地帯や丘陵などの自然の地形を上手く利用した土塁や堀からなる城だった可能性が高い、と言われています。
浜松城の石垣は、荒々しくみえますが、築城当時から400年の風雪に耐えています。
この石垣は、基本的には野面石(のづらいし)で、自然のあるがままの石を使い、接合部をほとんど加工しないで積む方式です。
慶長(1596年~1615年)以前はこのような方法が多く使われていたようです。
石垣の石と石の間の隙間に、小さな石が詰めてあります。これを間石(あいいし)と呼びます。
この石は、石垣を成形するだけで、強化する効果は持っていません。
間石が抜け落ちる程度のほうが、石垣は丈夫だといわれています。
参考資料:浜松市博物館 特別展「浜松城-築城から現代へ-」
堅く、大きな石が使われた「浜松城天守門」
浜松城は、特に天守台と天守門付近の石垣が堅く、大きな石が使われています。
天守門の四肢書き正面の左右ともに巨石が使用され、この石を「鏡石」と呼ぶことがあるそうです。
城の壮大さや城主の権力を見せつけるために、門の両側や周辺に意図的に大きな石を用いたと言われています。
この天守門は、浜松城の第二代城主の堀尾吉晴が作ったと言われていますが、古図などの資料から江戸時代初期にはなくなっていたと考えられるようです。
「安政元年(1854年)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が載っており、天守門でも櫓の壁が一部つぶれたものの、ひどい被害にはならなかったようです。
天守門には、門の上部に櫓(やぐら)が乗る櫓門と呼ばれる形式で造られています。
平成26年3月に復元された木造・入母屋造り・本瓦葺きの天守門です。
門は太い柱で造られています。
櫓の中に入ると、延床面積が56・74平方メートルだそうで、板張りの広々とした空間です。
城外の方向の窓の下(床)には石降としが造られています。
戦(いくさ)がなくなった時代になっても、戦いの備えは必要なのですね。
参考資料:現地案内看板
浜松城の地下にある「石組み井戸」
天守台の地下には、穴蔵と呼ばれる地下があって、石組み井戸があります。
穴の周りに石を積んで崩れないようにしたものです。
この時代、他の城郭にもよく見られます。
城内の飲料水として、戦の時には籠城に備え、最後の拠点として天守台の地下に井戸を設置しているのです。
上階への階段の裏に、地下への階段があります。
降りていくと、天井照明はなく、井戸の上にあるランプだけが、暗い空間を照らしています。
石組み井戸の蓋半分にそのランプが置いてあり、外とは別空間の雰囲気があります。
参考資料:現地案内看板
浜松城の水源「外の井戸(銀明水)」
浜松城の天守曲輪の一角、埋門のそばに井戸があります。
すでに深さは1mほどになってしまっており、今は水もありません。
浜松城の水利については、安政元年(1854年)の東海道沖を震源とする安政の大地震で、浜松城も大きな被害がありました。
「安政元年地震破損所巨細書込(こさいかきこみ)絵図」に井戸が記入されていたそうです。
井戸は天守台の地下に一つ、天守曲輪の埋門脇に一つ(これが銀明水になります)本丸に一か所、二の丸三か所。
さらに浜松御在城記には作左曲輪には四か所あったと言われています。
この他に、清水の湧出する清水場が清水曲輪に二か所あったとされています。
普段城内にどのくらいの侍やお女中・民衆がいたのかわかりませんが、広大な敷地の浜松城には、これだけの井戸や湧水城があり潤っていたのですね。
参考資料:浜松市博物館 特別展「浜松城-築城から現代へ-」
ご紹介の城 詳細情報
引間城跡(現在の「元城町東照宮」の場所)の詳細
住所 | 静岡県浜松市浜松市中区元城町111-2 |
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拝観時間 | 自由 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | バス JR浜松駅北口バスターミナル 13、14番乗り場から全てのバス約10分乗車→「浜松城公園入口」下車→徒歩約5分 |
浜松城天守門の詳細
住所 | 静岡県浜松市中区元城町100-2 |
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電話 | 053-453-3872 |
拝観時間 | 8:30 ~ 16:30 |
定休日 | 12月29日・30日・31日 |
入場料・拝観料 | 高校生以上200円(天守門・天守閣共通) 小中学生無料 |
駐車場 | 有料駐車場あり ※2022年3月より有料化 ※最初の90分までは無料 ※土日祝は上限520円 |
アクセス | バス JR浜松駅北口バスターミナルより1,13番のりば「市役所南」下車→徒歩約6分 車 東名「浜松IC」「浜松西IC」より約30分 |
公式HP | https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/ |
引間城から浜松城へ
今回の徳川家康を巡る情景は「引間城から浜松城へ」というテーマでお送りしました。
徳川家康が築城した浜松城の前身は引間城であり、浜松城になってからも、いきなりあのような立派な天守台があったわけではありませんでした。
徳川家康から引き継いだ歴代城主が、浜松城を造り上げていきました。
浜松城を登竜門に城主は家老は重鎮になっていったことから、出世城と呼ばれるようになります。
しかしながら、徳川家康は浜松城時代は艱難辛苦の連続でした。
次回は家康にとって最大の悲劇、「築山御前と岡崎三郎信康」をお送りします。
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