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徳川家康を巡る情景4「築山御前と岡崎三郎信康」

 2021/05/14
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信康廟

朝廷より征夷大将軍に任じられ、260年間続く江戸幕府をの堅固な礎を築いた徳川家康。

7歳から37歳までの間、戦をしても連戦連勝というわけもいきませんでした。
今川家の人質になったり、織田信長の家臣などで、数々の辛苦を体験しました。

今回は、そのなかでも家康にとって最大の悲劇を迎えた家族の「築山御前と岡崎三郎信康」をお送りします。

 

築山御前掛け軸

築山御前掛け軸

松平元康(徳川家康)の正室になる

築山御前は、父は今川家の重臣関口義広、母が今川義元の妹と言われ今川義元の姪にあたります。
駿府で人質であった松平元康(徳川家康)が16歳の時、結婚し正室となりました。

駿河時代は静岡市が出身であったから、瀬名姫と呼ばれていました。

 

出産

結婚2年後の1559年(永禄2年)長男竹千代(後の信康)を、翌年には亀姫を産みました。
さらに翌年の1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、人質交換として、家康共々岡崎に迎えられます。

城の東方にある総持寺の築山に住んだことから、築山御前と呼ばれるようになりました。
(別の説では、築山曲輪に住んだことから築山御前と呼ばれたともあります)。

 

嫁姑の関係

家康の実母の於大の方(おだいのかた)との関係がうまくいかず、岡崎城は嫁姑の舞台となったそうです。
今川義元が討たれ、バックボーンを失い、それでも毅然とした態度で臨まなくてはならない築山御前に、姑の於大の方にはどう映ったのでしょう。

息子である岡崎三郎信康の妻は、織田信長の長女の徳姫
家筋の因果関係もあって、徳川家の義祖母、築山御前(今川の血筋)、義娘の徳姫(織田信長の血筋)の3代の女性の戦いは熾烈なものになっていたのかもしれません。

参考文献:浜松城天守内の案内看板「浜松医療センターと歴史探訪(Vol.22 NO1 2016)」

 

 太刀洗の池

太刀洗の池

築山殿と信康の殺害命令

織田信長の長女であり、岡崎三郎信康(徳川家康の嫡男、松平信康)である徳姫が、十二条からなる書状を織田信長に届けたことに始まります。
築山御前と唐人医師との密通、武田勝頼との内通、信康の残忍な行為などを報告されたと言われています。

これに激怒した織田信長は、1579年(天正7年)徳川家康に築山御前と信康に処刑を命じました。

 

佐鳴湖での死の宣告

1579年9月29日、築山御前は浜松城に移るという名目で、うきうきしてお輿にのって向かいました。
一行は浜名湖を過ぎ、佐鳴湖を渡り、対岸の小藪へ上陸しました。
そこで家康の家来である野中三五郎から死の宣告を受けることになります。

 

名刀「相州貞宗」と言い伝え

殺害時に使用した名刀「相州貞宗」(2尺3寸=70センチメートル)の血のりを洗ったという伝説があるのが太刀洗の池
刀を洗った池は、いつまでたっても水が濁ったままでした。

「おそろしいことだ」
「御前さまのうらみがこもっているにちがいない」

西来院の和尚や残った人々がねんごろに供養して、きれいな澄んだ水になったと伝えられています。
築山御前はこの時38歳でした。

 

「太刀洗の池」の現在

太刀洗の池の碑は、浜松医療センター第2駐車場の出入り付近にあります。
この辺りは今でも「御前谷」と呼ばれています。
取材したときには、駐車場の工事をしていて、近づけなかったので、昔の写真で絵を完成させました。

参考文献:家康にまつわる民話「浜松の伝説」浜松医療センターと歴史探訪(Vol.22 NO1 2016)

 

築山御前廟堂 月窟廟

築山御前廟堂 月窟廟

西来院

浜松市中区広沢に西来院というお寺が、閑静な住宅街の中にあります。
正門を通り、細長い参道を行くと、西来院の本堂が見えてきます。

本堂の左手に墓地があり、その中に築山御前を祀る廟堂があります。
築山御前廟堂は「月窟廟」という名称がつけられています。

 

徳川家康の想い

織田信長の命令とはいえ、三河のため、徳川家康の安寧のために屈服せざるを得なかった徳川家康の苦悩もさることながら、身に覚えのない「謀反人」の汚名を着せられた築山御前。
一人寂しく浜松の野に散華した御前の姿を思うと、あまりに痛ましい。

徳川家康は、これを悼み哀れみ、潙翁(いおう)禅師に命じて懇ろにこの地に葬らしめました。

敗戦の一族滅亡は戦国時代の理。
徳川家康が命令を下したのか、信長の密かな下知なのかはわかりません。

徳川家康は築山御前を愛していたのか。
これらの史実を心情で肉付けし、みなさんひとりひとりが物語を作ってみてはいかがでしょうか。

 

織田信長の娘 濃姫の想い

築山御前は徳姫からみれば姑。
気の強かった築山御前に対して、疎ましさ厭わしさはあったでしょう。
それが織田信長に送った、十二条からなる書状で信長に助けを求めたのか、または亡き者にしようと企んだのか。
徳姫はその十二条で、義母が殺されて、胸のつかえが取れたのか、予想以上の出来事に胸を痛めたのか、それはわかりませんが、この出来事は徳姫の胸にずっと残ったはずです。
部下の家康の妻であり、今川の生き残りでもある築山御前は、信長にとっても消してしまわなければならない存在だったのでしょう。

 

築山御前廟堂 月窟廟の現在

月窟廟は浜松空襲で焼失していますが、昭和53年の400年忌に復元されています。

参考文献:現地案内看板

 

岡崎三郎信康像

岡崎三郎信康像

徳川家康の長男(嫡男)で母は今川義元の姪の築山御前。
岡崎城主を務めたことから、祖父の松平広忠同様に岡崎三郎を名乗りました。

父の家康は、信康の元服以前の永禄9年(1566年)に徳川に改姓していたので、息子も徳川信康と名乗っていたようです。

 

岡崎城主時代

元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主になり、以後信康は勇猛果敢な活躍をします。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、徳川軍の一手の大将として参加し、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を上げました。
それらの活躍は、織田信長には今川の血筋が活躍することに、危惧を覚えたのかもしれません。

 

家康の命令で切腹させられる

天正7年(1579年)家康が岡崎城を訪れ、翌日信康は岡崎城を出ることになりました。
大浜城に移され、その後遠江の堀江城に、さらに二俣城に移されました。

9月15日に家康の命により切腹させられました。
享年21歳(満20歳没)。

江戸時代になってから、江戸幕府が「徳川」姓は徳川将軍家と御三家・御三卿のみに限るという方針をとったために、信康は死後になって「岡崎三郎松平信康」に格下げされたといわれています。

参考文献:ウィキペディア

 

清瀧寺

清瀧寺

清瀧寺は、二俣城跡の尾根続きにあります。
京都知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来。

 

岡崎三郎信康が二俣城で切腹

天正7年(1579年)9月15年岡崎三郎信康が二俣城で生害(しょうがい)されました。
遺骸を当寺に葬り、法名は騰雲院殿前三州達岩善通大禅定門(どううんいんでんぜんさんしゅうたつがんぜんつうだいぜんじょうもん)といいます。

 

家康によって建立された清瀧寺

天正9年に徳川家康は、二俣城のとなりにあったこの寺へ来られ、清水の湧き出るのを見て、寺を清瀧寺と名付け、信康の菩提寺に指定しています。
「信康山長安院清瀧寺殿」の諡(おくり)名をしました。

さらに廟・位牌堂・庫裏・万丈・不動堂・山門・鐘楼などを建設しています。
これらにより、信康を失った家康の無念が伝わってくるようです。

安寧・太平の世を築いた家康の草創の頃の信康の夭折は、徳川三百年の礎となった運命の若武者だった、と現地案内石碑に刻まれていました。

現在の清瀧寺には、井戸楼が復元されています。
武田軍に包囲され、籠城のための水の補給源である井戸楼を天竜川の上流からの流木で壊され、二俣城を明け渡しました。
その井戸楼が門前に復元されています。

 

本田技研工業の創業者本田宗一郎の逸話

余談ですが・・・
本田技研工業の創業者本田宗一郎が、二俣尋常高等小学校(現在の浜松市立二俣小学校)の在学中のある日「腹が減った」と授業中に教室から抜け出して、裏山の清瀧寺の鐘楼へ行き正午前に鐘を突き、正午だということで、持ってきた弁当を食べたという実話が清瀧寺の歴史の一部として語り継がれているそうです。
(ウィキペデイア抜粋)

清瀧寺のとなりには、本田宗一郎のものづくり伝承館があります。

参考文献:現地案内看板

 

「信康廟」

信康廟

織田信長は幽閉咲の二俣城で、信康の切腹を命じました。
介錯役は服部半蔵正成でしたが、何としても刃を向けられず、検視の天方山城守通綱が代わりに介錯をしたと伝えられてます。
信康の類い稀な能力を恐れた信長の厳命、との通説のほか諸説はあります。

信康が自刃した時、浜松に二俣村役人たちが呼び出され、二俣には浄土宗の寺院が何寺あり、寺の名前を書き出せと仰渡しがありました。
しかし、二俣には浄土宗の寺は一ヶ寺もないという。
それでは庵室でもよいからという次第で、庵室のあったこの地に信康の廟所・位牌堂・其外書道を建立しました。

ここには、当時二俣城主だった大久保七郎右衛門忠世、三方原で戦死した中根平左衛門正照、青木又士朗吉継の墓もあります。

参考文献:現地案内看板

 

今回ご紹介の施設 詳細情報

築山殿が眠る築山御前廟堂がある「西来院」

西来院(せいらいいん)

住所 浜松市中区広沢2丁目10-1
拝観料 無料
駐車場 無料駐車場
※参拝者専用駐車場利用
アクセス バス JR浜松駅北口バスターミナル2番のりば「広沢・医療センター方面行き」乗車約15分→「広沢一丁目」下車→徒歩約5分

 

築山御前斬殺の刀を洗った池と言い伝えの「太刀洗の池跡」

大刀洗の池

太刀洗(たちあらい)の池跡

住所 静岡県浜松市中区富塚町328
浜松医療センター前駐車場の隅
駐車場 浜松医療センターの有料駐車場をご利用ください
アクセス バス JR浜松駅北口バスターミナルから「鴨江医療センター行き」乗車約20分→「医療センター」下車→徒歩約3分
東名「浜松西IC」から約7.4km 約15分

 

岡崎三郎信康像や信康のお墓がある「清瀧寺」

清瀧寺(せいりゅうじ)

住所 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1405
駐車場 参拝者専用無料駐車場あり
アクセス 電車 天竜浜名湖鉄道「二俣本町駅」から徒歩約10分
新東名「浜松浜北IC」から約4.6km

 

まとめ

今回は徳川家康を巡る情景「築山御前と岡崎三郎信康」をお送りしました。

浜松は苦しい時期を過ごした時期でしたが、徳川家康は、300年にも及ぶ江戸幕府を築きました。
いくさでは連敗して屈辱を味わい、愛する人を謀略で失いました。

夫婦間や親子間で憎悪があったのかどうか、誰にもわかりません。
戦国時代で、今の我々とは感覚や考え方が違うでしょう。

妻と子供を殺すのを命じたか、または見て見ぬふりをしたか。
どちらにせよ、苦しんだに違いないと思います。

それが、江戸幕府を構築する上で、大事な経験だったのでしょう。

次回は最終回になります。徳川家康を巡る情景「神君家康」編をお送りします。

 

その他の徳川家康を巡る情景記事はこちら

 

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この記事を書いたひと

山下清生

山下清生

浜松工業高校デザイン科卒。
3年間印刷会社でデザイナーを経験したあと、ヤマハ発動機(株)勤務。
定年を迎えましたが、引き続き勤務中。

だから、昔から好きだった絵を描くことを再開しました。
(まだ5年くらいは働きますが・・・)
今、描きたいものが、たくさん目の前に現れています。
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<受賞歴>
2020年 2月 「浜松市芸術祭第67回市展」入選
2020年11月 「日本国際水彩画会秋季秀作ネット展2020」入選
2021年 4月 「第21回日本国際水彩画交流展」入選
2021年 6月 「第4回日美展・絵画部門」入選

◆絵だけでなく小説の執筆活動にも挑戦していました。

1996年(平成8年) 作品「こちら何でも相談室」創元推理短編賞 
2001年〜2005年頃  掛川市大須賀に在住のミステリー作家の「木谷恭介」に弟子入りして、木谷工房に参加
          「玉沖好也(たまおきよしや)」というペンネームで一部下書きとアイデア出し、表紙を担当させていただきました。
2012年(平成24年) 作品「二俣城備忘録」伊豆文学賞 
2020年(令和 2年) 作品「二俣城攻防録」ふじのくに芸術祭2020文学部門小説の部 奨励賞