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徳川家康を巡る情景1「三方ケ原の戦い 敗走編」

 2020/11/20
学ぶ この記事は約 11 分で読めます。
地元に残したい風景:徳川家康

今まで電車沿線・街道などで私目線で地元に残したい風景を訪問し描いてきました。
これからは浜松の代表的な戦国武将「徳川家康」にスポットをあて、ゆかりの場所を巡ってきました。

今回の「徳川家康を巡る情景」では、三方ケ原の戦いの敗走からの岡崎三郎信康切腹までをメインに紹介していきます。
第一回めは「三方ケ原の戦い 敗走編」をお送りします。

 

徳川家康について

誕生

徳川家康は、1542年(天分11年)三河に生まれました。

人質生活

1548年に織田家、1549年に今川家の人質になっています。
人質生活は尾張で約二年、駿府で12年ほどになっています。
人質時代の15歳の時に瀬名(築山御前)をめとり、2年後に信康をもうけます。その一年後には亀姫をもうけます。
1560年に今川義元が桶狭間で織田信長に敗れたのを機会に、翌年19歳で人質生活に終止符を打っています。

改名

1563年、20歳で元康から家康に改名しています。

浜松へ移る

24歳から28歳にかけて、三河国統一や姉川の合戦を経て、岡崎から浜松の引間へ移り、そこを浜松と改名しました。
その時、浜松城を建設して浜松城を建設しています。(引間城から浜松城へ)

三方ヶ原の合戦

1572年、30歳の時に「一言坂」敗戦「二俣城」で城を奪われ「三方ケ原」では敗走しています。
その後、二俣城は奪還しますが、37歳の時に、正室築山殿の惨殺と、嫡男の岡崎三郎信康切腹の悲劇が待っていました。

江戸幕府

幾多の大いくさを経て、61歳で征夷大将軍に任官し、江戸を本拠としたことで、江戸幕府が創設されました。
74歳で病死し、翌年天皇より東照大権現という勅諡号(ちょくしごう)を送られました。
静岡や日光、そして浜松などに東照宮が建造されました。

 

「三方ヶ原の合戦の地」

地元に残したい風景:徳川家康

元亀3年(1572年)上洛を目指す武田信玄軍は遠江国へ進軍。
二俣城を手に入れた武田軍は、三方ヶ原を通り過ぎようとしていました。
その数は2万5千。
「敵がわが城外を踏みにじって通るのを黙認できなかった。勝敗は天にあり、兵力の多少にあらず」
家臣の意見を押し切って、浜松城の玄黙口から出陣しました。
徳川軍は8千人。織田の援軍あわせて1万1千で、この三方ヶ原で迎え撃ちました。
12月22日のことです。

「一言坂」「二俣城」と痛い2敗をして、冷静さを失っていたかもしれません。
この時、徳川家康は30歳の若さでした。
徳川軍は少人数にも拘わらず、武田軍を包囲しようとした鶴翼の陣を敷きました。
対する武田軍「人」の字のように、先手を敵と戦わせ、疲れてくると二番手、三番手が次々と攻める魚鱗の陣でした。

その結果、武田軍死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者は2,000人にも達し、大勢の家臣を失いました
日没まで2時間、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などの猛将の防戦より、家康本人は難を逃れましたが、敗走をせずにはいられませんでした。
徳川軍は、午後6時頃には総退却となったのです。

「三河物語」では、家康が「まん丸に成て除せ給ふ(まんまるなりてのかせたまふ)」の状態だと書いています。
戦いがあった場所ついては、三方原台地であるということ以外、詳しいことはわかっていません。

1984(昭和59)年、その歴史を長く伝えようと「三方原歴史文化保存会有志」の手により、三方原の一角である三方原墓園敷地に碑が建立されたそうです。

参考文献:浜松市HPより

 

「ジオラマ:三方ヶ原の戦い 敗走」

地元に残したい風景:徳川家康

三方ヶ原の戦いで、敗走する徳川家康。
周りを三河譜代の家臣たちが取り囲みながら、徳川家康を守っている場面です。

徳川軍は善戦しましたが、武田軍の数による厚い波状攻撃に、徳川軍の前線が崩れ始めると、総崩れの形になってしましました。
頼みの武田軍の援軍も援軍にならず、わずか2時間で勝負は決まってしましました。
敗走する徳川家康を守るために、雪が残る中、家臣は次々と身代わりになって命を落としていきます。

その中の一人が、夏目次郎左衛門吉信。

三河一向一揆でとらえられましたが、家康の寛大な処置で助かり、その恩に報いようと、家康の身代わりとして討たれました。
「夏目次郎左衛門吉信」の顕彰碑が、犀ケ崖資料館の前を通る姫街道を北上した場所にその功績を称えて建てられています。
ちなみに吉信は夏目漱石の先祖にあたるそうです。

このジオラマは、徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環として、監修を歴史学者の磯田道史氏、制作は情景作家の山田卓司氏によって作られ、犀ケ崖資料館の中に常設されています。
このジオラマを絵にしてわかったことですが、細部まで丁寧に造られていて、ひとりひとりの表情も感情にあわせてすべて違っていました。
小道具も正確に、槍や草鞋まで精巧に造られています。

さらに馬が苦しがっている表情も見受けられます。
じっくり見ていて飽きない立体模型ですね。

ジオラマ作家の山田卓司氏は浜松出身で、87年、浜松市に戻りフリーのプロモデラー・情景作家として活動開始。
模型雑誌で作品を発表し、商品原型、イベント用情景を製作されています。

参考文献:ジオラマの案内看板より

 

「家康公 雲立ちクスノキ」

地元に残したい風景:徳川家康

徳川家康にまつわる伝説や伝承が各地に多数あります。
このクスノキもそのひとつ。

「三方ヶ原の戦い」で敗走した徳川家康。
大勢の追手に追い詰められていたのでしょう。
浜松八幡宮の境内にあるクスノキの祠に身を隠しました。

そこで一心に八幡神に祈りをしていたところ、突然クスノキから雲が立ち上がり、老翁の姿に変えた神霊が現れ、白馬にまたがって飛び立ち、家康を浜松城へと導いたとされています。
これで勇躍を得た徳川家康は、八幡宮を徳川家代々の祈願所と定め、旗や弓、神馬などを奉納し、武運を祈願するようになったといわれています。

この逸話をもとに「雲立楠」と命名されました。
樹齢1000年を超える巨樹で、根回り約15m、枝張り25m、樹高さ15m。
幹の根元には空洞があり、枝葉は東西南北四方に繁茂して生命力溢れる威容を保っています。

ここに家康が隠れたのか、と想像を膨らませてくれる大樹です。
さらに古くは、源義家公(八幡太郎)がこの八幡宮に参籠した折り、樹下に旗を立て八幡二柱の神を勧請したとの伝承があり、『御旗楠』と称されていました。

参考文献:浜松八幡宮公式HPより

 

「鎧掛松」

地元に残したい風景:徳川家康

ここも伝承のひとつです。
市役所の西側にある「鎧掛松」
三方ヶ原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、この名が付けられました。

犀ケ崖資料館内にある案内看板では、いくさに負けてお城に帰ってきたごんげんさまは、暑い日で人も馬もたきのような汗をながしていました。
家来が「よろいをおぬぎになったら」
そこで家康「といっておくところもなし」「この松ではどうでしょう」
といって無理によろいを松の枝にかけました。
すると末の高いこずえから涼しい風が急に吹いてきて、ごんげんさまの汗がいちどにひいてしましました。

三方ヶ原の戦いがあったのは12月22日。
真冬で雪も残っていたようです。
必死に逃げ帰った家康は汗だくだったはずです。
暑さに耐えきれずよろいを脱ぎ、松にかけた。
そこでこの松を、鎧掛けの松と言われました。

冬だから、遠州の空っ風もあり、すぐに身体は冷えたはずです。
浜松の伝説、民話だからでしょう。
暑い日だと書かれています。

でも、史実とは関係なく、空想が強い伝説や民話が語り継がれるのもおもしろいですね。
当時の出来事を調べるのは、遺跡や古文書しかありません。
残された戦記古文書は勝者が書いたものですから、これも鵜呑みにできないところがあります。
本当はなにがあったのか、解らない真実をさぐるよりも、空想で補うほうが楽しいのではないでしょうか。

現在の松は3代目で、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。

参考文献:犀ケ崖資料館内にある案内看板より

 

「玄黙口」

地元に残したい風景:徳川家康

浜松城の前身である古城の引間城の北側の城門です。
この頃は徳川家康公の支配下にありました。

元亀元年(1570年)に徳川家康が引間城に入城し、浜松城へと改称しています。
家康が在城していたころは、石垣や天守閣などなく、湿地帯や丘陵などの自然な地形を利用した土塁や堀などの城だった、可能性が高いそうです。

ここは大地に設けられた曲輪の間が切通しのようになっている城門だそうです
三方ヶ原の戦いで、敗走した徳川家康が、この城門に退却しました。
徳川家康が浜松城を築く時に、玄黙に門をつくって玄黙口と称しました。

三方ヶ原の合戦で敗れた家康は、犀ケ崖の手前に旗を立てさせ、逃れ来る味方を集めて玄黙口から収容し、自身も夏目次郎左衛門正吉が「我が家康なり」と名乗って討ち死にする間に、玄黙口から城に入ったという史実があります。

参考文献:浜松博物館特別展「浜松城」の説明文・玄黙口の案内看板・浜松市HPより

 

徳川家康の伝承にまつわる碑や場所の詳細情報

三方ヶ原の合戦の地

三方ヶ原古戦場碑

住所 静岡県浜松市北区根洗町
三方原墓園駐車場敷地内
駐車場 なし
アクセス バス JR浜松駅北口バスターミナルより奥山行乗車約40分→「三方原墓園」下車→徒歩約2分
JR浜松駅より国道257号線を北上約35分→三方原墓園
公式HP

 

犀ケ崖資料館

犀ケ崖資料館

ジオラマがある「犀ケ崖資料館」の詳細情報

住所 浜松市中区鹿谷町25−10
電話 053-472-8383
営業時間 9:00〜17:00
定休日 月曜日(国民の祝日の場合はその翌日)
国民の祝日の翌日
年末年始(12月29日~1月3日)
入場料・拝観料 無料
駐車場 無料駐車場あり
アクセス バス ●JR浜松駅北口バスターミナルより「舘山寺」行き乗車約12分→「浜松北高」下車→徒歩約1分
●JR浜松駅北口バスターミナルより「奥山・気賀」行き乗車約12分→「さいが崖」下車すぐ
JR浜松駅から六間道路経由 約15分
HP https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/hakken/tanbo/201505.html

 

家康公 雲立ちクスノキ

家康公 雲立ちクスノキがある「浜松八幡宮」の詳細

住所 浜松市中区八幡町2
電話 053-461-3429(代)
拝観時間 自由
拝観料 なし
駐車場 無料駐車場あり
アクセス バス JR浜松駅北口バスターミナルより早出行き乗車→「八幡宮」下車→徒歩約1分
電車 遠州鉄道西鹿島線「八幡駅」下車→徒歩約1分
JR浜松駅より広小路通り経由約9分
徒歩 JR浜松駅より徒歩約18分
HP http://www.hamamatsuhachimangu.org/

 

鎧掛松

浜松城:鎧掛け松

徳川家康公が鎧をかけたとされる鎧掛松

住所 浜松市中区元城町103−2
拝観時間 自由
見学 無料
駐車場 浜松市役所の有料駐車場あり
アクセス バス JR浜松駅北口バスターミナルより 約6分乗車→「浜松市役所」下車→徒歩約4分
JR浜松駅より国道257号線経由 約10分

 

玄黙口

曳馬城 玄黙口跡の看板設置場所

住所 浜松市中区元目町110−9
見学 自由
駐車場 なし
アクセス バス JR浜松駅北口バスターミナルより 約8分乗車→「浜松城公園入口」下車あ→徒歩約1分
徒歩 JR浜松駅より約20分
JR浜松駅より広小路通り経由 約10分

 

あとがき「徳川家康を巡る情景」

第一回めは「三方ケ原の戦い 敗走編」をお送りしました。

今川からの長い人質生活も終わり、部下を率いての国盗り合戦を繰り広げます。
この頃の徳川家康は年齢にして30歳。血気盛んで勢いもありますが、それ故の敗戦が多い時期です。

さらに7年後には長男を正室をも失う悲劇が待っています。
家康74年の生涯の中でも、一番波乱万丈な時期だったのではないかと思います。
しかしこれらの経験があったらばこそ、265年も続く徳川幕府の礎を築けた神君なのでしょう。

次回は「三方ヶ原の戦い 反撃、犀ケ崖」をお送りします。

 

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この記事を書いたひと

山下清生

山下清生

浜松工業高校デザイン科卒。
3年間印刷会社でデザイナーを経験したあと、ヤマハ発動機(株)勤務。
定年を迎えましたが、引き続き勤務中。

だから、昔から好きだった絵を描くことを再開しました。
(まだ5年くらいは働きますが・・・)
今、描きたいものが、たくさん目の前に現れています。
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<受賞歴>
2020年 2月 「浜松市芸術祭第67回市展」入選
2020年11月 「日本国際水彩画会秋季秀作ネット展2020」入選
2021年 4月 「第21回日本国際水彩画交流展」入選
2021年 6月 「第4回日美展・絵画部門」入選
2021年 9月 「第45回記念新日美展」佳作入賞
2021年11月 「JIWI秋季国際水彩画展2021」入選
2022年 1月 「浜松市芸術祭第69回市展」入選
2022年 6月 「第5回日美展 絵画部門」優秀賞
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◆絵だけでなく小説の執筆活動にも挑戦していました。

1996年(平成8年) 作品「こちら何でも相談室」創元推理短編賞 
2001年〜2005年頃 掛川市大須賀に在住のミステリー作家の「木谷恭介」に弟子入りして、木谷工房に参加
         「玉沖好也(たまおきよしや)」というペンネームで一部下書きとアイデア出し、表紙を担当させていただきました。
2012年(平成24年) 作品「二俣城備忘録」伊豆文学賞 
2020年(令和 2年) 作品「二俣城攻防録」ふじのくに芸術祭2020文学部門小説の部 奨励賞
2021年(令和 3年) 作品「潮流(万石事件)」ふじのくに芸術祭2021文学部門小説の部 入選