浜松を流れる1級河川「天竜川」その雄大な流れに隠された物語と歴史
新幹線で旅をしていると、車窓からいくつも雄大な川の流れを目にします。
もしその川が静岡県を貫く天竜川であれば、きっと「これが天竜川かぁ」と感慨深く思うことでしょう。
今回は、そんな天竜川にまつわる伝承や歴史、そして現在の姿について解説していきます。
この記事の見出し
天竜川の名の由来:様々な呼び名と変遷
天竜川は、時代とともに様々な呼び名で呼ばれてきました。
霊亀元年(715年)には「麁玉河」や「荒玉河」と記され、どちらも「アラタマガワ」と読み、掘り出して磨いていない玉、荒々しい川を意味していました。
平安時代には「広瀬川」、鎌倉時代には「天中川」と呼ばれ、最終的に現在の「天竜川」と呼ばれるようになったのは、室町時代以降のことです。
「天竜」の由来には、「あめのながれ」から転じたという説や、諏訪湖の近くにある諏訪大社に祀られている竜神から取ったという説があります。
竜の字が使われた理由:水害の象徴?
「あっきーの都市伝説」として紹介されたように、「竜」の字は水害の多い川につけられることがあり、「天竜川」もその例の一つかもしれません。
天竜川は「暴れ天竜」とも呼ばれ、その荒々しい流れと度重なる氾濫は、人々に畏怖の念を抱かせてきました。特に、台風や大雨の際には、川の水位が急激に上昇し、周辺地域に甚大な被害をもたらすこともありました。
そのため、人々は堤防を築いたり、水防工事を施したりと、川の氾濫を防ぐために様々な努力を重ねてきました。
天竜川龍神伝説
坂上田村麻呂将軍が東国へ向かう途中、荒れ狂う天竜川(当時は岩田の海)を鎮めるため、岩水寺で祈願しました。すると、美しい姫が現れ、将軍の奥方となりました。
しかし、出産時に姫は本来の姿である大蛇に戻り、将軍との間に生まれた赤子を残して去ってしまいます。
数年後、将軍は再びこの地を訪れ、宝珠の力で海を鎮め、陸地に変えました。大蛇は岩水寺の赤池から諏訪湖へと続く洞窟に姿を消し、将軍は赤蛇を祀る神社を建てました。
これが天竜川にまつわる龍神伝説の一つです。
参考:岩水寺「天竜川龍神伝説」
歴史を語る天竜川:舟運と木材輸送
↑資料をもとにAIで作成しました。
天竜川は、古くから人々の暮らしと深く結びついてきました。
川の恵みは、農業や漁業だけでなく、交通の要としても地域の発展に大きく貢献してきました。特に、遠州地方では「遠州天竜舟下り」と呼ばれる舟運が盛んに行われ、物資の輸送や人々の交流を促進しました。
また、慶長11年(1606年)には、角倉了以が東大寺大仏殿改築に必要な木材の運搬のため、天竜川を利用した木材流送を開始しました。以来、江戸時代を通じて、天竜川は木材輸送の重要なルートとして活用されました。
しかし、1950年代に入るとダム建設が進み、木材輸送は筏流しから陸送へと転換していきました。
↑佐久間ダム
天竜川の今:自然と共生する未来へ
現代においても、天竜川は人々にとって大切な存在です。
発電や工業用水、そして農業用水など、様々な形で私たちの生活を支えています。
同時に、天竜川は豊かな生態系を育む貴重な自然環境でもあります。アユやアマゴなどの魚類が生息し、川辺には美しい景色が広がっています。
しかし、近年では、地球温暖化や人間の活動による影響が懸念されています。
水質汚染や河川環境の変化は、天竜川の生態系に深刻な影響を与える可能性があります。
私たちは、天竜川の恵みを享受するだけでなく、その自然環境を守り、未来へと繋いでいく責任があります。
新幹線から眺める天竜川:その雄大な流れに想いを馳せて
新幹線から天竜川を眺める時、その雄大な流れに、悠久の歴史と人々の暮らしが織りなす物語を感じることができるでしょう。
「暴れ天竜」と呼ばれた荒々しい過去、そして金原明善をはじめとする人々が力を合わせて川と共存してきた歴史。舟運が栄えた時代、そして現在も続く「天竜舟下り」。その流れは、自然の力強さと人間の叡智、そして文化が織りなす、壮大なドラマがあります。
そして、この美しい川を未来に残していくために、私たち一人ひとりができることを考えてみませんか。天竜川は、私たちに自然との共生の大切さを教えてくれる、かけがえのない存在なのです。
天竜川を訪れる機会があれば、ぜひその流れを間近で感じてみてください。
天竜舟下りで歴史と文化に触れるのも良いでしょう。きっと、その美しさに心を打たれることでしょう。
そして、新幹線から天竜川を眺める際には、この記事で紹介した歴史や伝承、そして現在の姿を思い出し、その雄大な流れに想いを馳せてみてください。
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