浜松城天守閣巡り〜無料ガイドでお得に観光‼〜
浜松で徳川家康!といえば…まず浜松城が挙がるのではないでしょうか。
全国のお城に比べると、浜松城は小さな天守閣ですが、年々人気が高まり県外や海外からも観光客が増えているんですって。
浜松城は徳川家康が過ごした城としてよく知られていますが、
徳川家康以後、歴代の浜松城主の多くが江戸時代の重臣に出世したことから出世城とも言われるようになりました。
江戸幕府の老中・水野忠邦が浜松城主後に出世したのは有名です。
約260年続いた江戸幕府を開く前の19歳から45歳の徳川家康が過ごした浜松での生活や思いは一体どのようだったのでしょうか。
浜松城天守閣に行って、その当時の家康の見ていた景色の現代版を体感し、出世城のご利益パワーを受けてみませんか。
この記事の見出し
浜松城天守閣へ行くには…
浜松城公園の一角にある天守閣へ向かうには、東西南北方向から色々なルートで行くことができます。
ざっと思い出しただけで7通り~。
最終的には、天守門を通らず天守閣に行くルートと天守門をくぐって天守閣に行くルートの2通りから天守閣に行くことができます。
私のおススメはやはり天守門をくぐって天守閣に向かうルートです。
浜松城公園駐車場から天守閣に向かう場合、芝生公園そばに立っているこの看板があります。
案内通り【➡方向】に進んでいくと…
道が二手に分かれ、そのどちらにも【天守閣➡】の看板があるんです!
えっ?どっちが合ってるの?
どちらからでも、浜松城天守閣に行くことができるんです。
左側の道は…浜松市中区役所裏のところで右に曲がって天守閣に向かいます。
右側の道は…天守閣へ向かう①近道コースと②ベビーカーや車いすの方用に階段がないコースがあります。
天守門を通る近道ルート:浜松城公園駐車場スタート
浜松城公園駐車場から天守閣に早く行きたい場合はこのルートが近いです。
①二手に分かれた道を右側に進む
②左側の石階段を上ります。
かなり急な階段ですがたったの53段!?
ベビーカーや車いすの方は、階段ではなく、そのままゆるやかな坂を進みます。
③天守門まで進む
のぼり切ったら天守門、天守閣が見え、もうすぐです。
柵に沿って天守門まで進みます。
④天守門をくぐって…
天守門右側の鏡石上部の石も注目‼
♥石がありますよ。
⑤天守閣に到着~
いろいろなルートを挙げると迷路みたい?!と思われるかもしれませんが、ご安心ください。
あちこちに行き先が書かれた案内板があるので迷うことはありませんよ。
ベビーカーや車いすの方用に階段がないコースもあります。
こちらをご覧ください。
↓↓↓
いざ、浜松城天守閣に入城
天守閣に入るには石段を上がります。
これが意外と見た目よりもキツイっ‼
段差もまちまちだし、少し傾斜もあります。
でも、運動不足の私には適度な運動になって頑張れましたー。
階段を上がって天守閣内に入ってすぐ左手に、チケット売り場&案内所があります。
ここで入城料を支払います。
入場料(天守閣・天守門共通) | 大人:200円、中学生以下・70歳以上:無料 |
入場時間 | 8:30~16:30(入場は16:20まで) |
休館日 | 12/29、30、31 |
電話番号 | 053-453-3872 |
海外からの観光客にも対応できるように、英語を話せるスタッフさんがいます。
天守閣は、地下1階に井戸の展示、1、2階に展示室、3階に展望台があります。
ガイド付きで浜松城天守閣を見学しよう!
入口にこんな案内が…
訪れた日は日曜日でしたが、平日も年末を除いて毎日ガイドスタッフさんがいます。
ボランティアガイドさんは現在120名登録されていて、毎日違うメンバーがガイドされています。
この日は計3名のガイドさんがいましたが、毎回違ったガイドさんの浜松城の説明が聞けるのも面白いですね。
浜松城天守閣のガイド利用時間は10:00~15:00の間で、ガイド料金は無料。
「無料なら、お願いしたいな♪ 申し込みはチケット売り場…?」と思っていると、ガイドさんがちょうど目の前にいらっしゃいました~。
ということで、そばにいた愛知県から観光で訪れたご夫婦と一緒にガイドしてもらうことになりました。
天守閣1階の見学の見どころ:甲冑と家康像
ガイドしてくれた浜松観光ボランティアガイドの会の石田さん
この左側の甲冑は、金陀美具足(きんだびぐそく)。
徳川家康が19歳の時(松平元康の頃)に、桶狭間の戦いで着用していたものかも…と伝えられています。
右側の甲冑は、歯朶具足(しだのぐそく)。
関ケ原の戦いから徳川家で代々伝えられたものです。
どちらもレプリカですが、実際のサイズの1,2倍に復元されているので迫力あります。
説明を聞きながら展示物を見ていると突然、ボランティアガイド:石川さんから質問が……
【問題1】 徳川家康の身長は、どのくらいだった?
- 150cm未満
- 160cm以下
- 161cm以上
正解はどれか、わかりますか?
「若き日の家康公像」
徳川家康の身長はこの「若き日の家康公像」を見るとわかります。
髪や顔のシワやたるみ、爪に至るまでかなりリアルで今にも動き出しそう~‼
1573年2月頃(旧暦12月)の三方ヶ原の戦いの時の家康を再現しています。
今では滅多に雪が降ることがない浜松ですが、この当時の浜松は雪が降っていたそうで、家康は雪の中を草鞋(わらじ)で戦っていたと言われています。
説明パネルに「采配の柄をかむ癖があったため、歯形がついている」「親指の爪をかむ癖があった」と書かれていましたが、たしかに采配に歯形や爪を噛んだ跡が付いています。
そして、身長についても書かれていました!
答えは『2』
徳川家康の身長は、159cm前後だったと言われています。
あまりにリアルな作りで小学生の娘はちょっとビビッてました。
【問題2】どうして徳川家康の身長が159cm前後だと判明したのか、わかりますか?
400年前の人物の身長がわかるなんて、何か記録が残されていたのでしょうか?
徳川歴代将軍の身長(15代将軍以外)が判明しているそうなんですよ。
ビックリ‼
答えは、愛知県岡崎市の徳川家の菩提寺「大樹寺」にあります。
この寺には、徳川家の歴代の将軍の位牌やお墓が祀られていますが(15代将軍以外)、その位牌のサイズでそれぞれの将軍の身長がわかります。
つまり、亡くなる前の等身大サイズに位牌が作られた説が伝えられています。
寺の位牌堂には、大小さまざまなサイズの位牌がずらっ~と並んでいます。
興味がある方は、愛知県岡崎市の「大樹寺」まで足をのばしてみてはいかがですか。
【問題3】歴代将軍の中で一番身長が低かったと言われている将軍は誰?
14人の将軍の位牌の長さの平均は、151.4cm。
昔の人は、今よりも小さな身長であったと言われていますが、だいたい小学校5~6年生の身長…娘の身長くらいしかなかったんですね。
またまたビックリ!!
答えは、『5代将軍綱吉』。
位牌の長さが他の将軍に比べてかなり短く、124cmでした。
次に身長が低かったのは、7代将軍家継は135cm。
一番身長が高かったのは、2代将軍秀忠で160cm。
一緒に来ていた小学生の娘は、はじめは「ガイドさんの話を聞くのは、ちょっと難しそう~」と尻込みしていましたが、ガイド:石川さんのクイズ形式に、ちょっと興味を持ったようです。
天守閣1階の見学の見どころ:しかみ像
徳川家康三方ヶ原戦役画像(別名:しかみ像)複製
「武田信玄との戦い」
元亀3年12月22日(西暦1572年2月4日の夕方)、徳川家康が31歳の時、武田信玄と戦ったのが、「三方ヶ原の戦い」。
場所は現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺です。
この戦い、武田信玄の圧倒的な強さで家康は負けてしまい、家康は討ち死される寸前で家臣を自分の身代わりとして自分の鎧や馬を家臣に託し、浜松城へ逃げ帰りました。
浜松城へ逃げ戻った家康は、城門をすべて開けて、かがり火を焚き、あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う空城計(くうじょうけい)の策を行いました。
攻めてきた武田軍は、そんな浜松城の様子を見て罠かもしれないと判断し、突入するのをやめて引き上げて、付近で野営しました。
「犀ヶ崖で武田軍に奇襲」
武田軍を油断させた家康は、その晩に犀ヶ崖付近に野営中の武田軍に夜襲をかけました。
この夜襲を「犀ヶ崖(さいががけ)の戦い」といいます。
現在の浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近ですが、崖に布をかけて橋に見せかけ(この付近の地名が「布橋」になった)、夜襲で崖に武田軍の引き寄せ、大勢の武田軍を崖から転落させる策でした。
犀ヶ崖では両軍の大勢の兵士がこの崖に転落し死傷しました。
「武田軍の祟りを鎮める念仏」
「犀ヶ崖(さいががけ)の戦い」以降、この付近ではうめき声が聞こえたり、虫害や疫病がはやったりして武田軍の犀ヶ崖のたたりではないかと大騒ぎになっていきました。
その騒ぎに心を痛めた家康が僧侶に怨霊を鎮めるよう頼み、僧侶は犀ヶ崖の上に祠を建てて念仏供養を7日7晩したそうです。
それ以降、騒ぎがおさまったそうです。
遠州地方では7月にお盆を迎えますが、そのお盆で行われているのが郷土芸能の一つ、遠州大念仏です。
所説いろいろありますが、この遠州大念仏は家康が負け戦となった「三方ヶ原の戦い」が由来と言われています。
「しかみ像は負け戦の口惜しさの表情ではない?!」
家康は、敗戦の三方ヶ原の戦いを忘れないように、戦いの後にあえて絵師に敗戦の悔しい表情のしかみ顔の自画像を描かせたのが「しかみ像」と伝えられています。
本物の肖像画は、名古屋市の徳川美術館が所蔵しています。
ですが最近になって、三方ヶ原の戦いとは無関係である説を徳川美術館の講演会で発表されたようです。
今後、どのような説が展開されるのか注目したいですね。
天守閣1階の見学の見どころ:浜松時代の家康の悲運/家族の死
徳川家康は幼少時の松平家の頃、今川氏の人質になる予定が、対立する織田氏に送られました。
後に今川氏と織田氏の間の人質交換で家康は今川氏の下で人質として過ごしました。
今川氏の下で元服し、今川一族出身の姫(のちに築山御前と呼ばれる)を正室に迎えました。
ところが、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると今川氏と決別し、織田信長と手を結び、徳川家康と改名。
それ以降、今川家が敵となり、家康と長男の正室がそれぞれ敵対する出身のため、そして戦国時代の権力争いも相まって家族を殺害する決断になったのでしょう。
①家康の正室 築山御前の死
家康の正室は、今川義元の妹の娘と言われ、家康がまだ駿府城で人質状態の時に家康と結婚。
1559年には長男・信康、1560年には長女・亀姫が誕生しました。
しかし、家康の正室はその後、人質として岡崎に行き、岡崎城東の総持寺の築山に住みました。
1579年、息子・信康の命を助けたい一心で家康に嘆願するため、岡崎から浜松城へ来る途中、家康の命令で殺され、38歳の生涯を終えました。
②家康の長男 信康の死
1559年に誕生した家康の待望の長男・信康は、若干8歳で織田信長の長女・徳姫と結婚。
15歳で初陣以来、多くの戦いを父・家康とともにしてきました。
しかし、妻・徳姫が信康を中傷する書状を父・信長に送りつけ、信長が激怒!信康に切腹を命じる。
家康は信康を岡崎城から大浜城、堀江城、二俣城と点々と移しますが、1579年8月、築山御前が信康の命を助けるために家康に嘆願を求めて岡崎から浜松城へ向かう途中で家康の命令で殺されます。
翌9月、信康は二俣城(浜松市天竜区二俣)で自害し、21歳の生涯を終えました。
ボランティアガイドさんの説明は1階部分で終了でした。
このあと、自分たちで地下や2階、3階の展示室へ行きます・・・・
次のページでは、浜松城天守閣の地下、2階、3階の見学スポットをご紹介します。
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