堀江藩を巡る情景 第1弾
現在、浜名湖の名勝であり一大レジャー施設がる舘山寺温泉。
かつて舘山寺温泉に「堀江村」があったと言われていますが、堀江という名前が歴史に登場するのは、戦国時代と江戸末期から廃藩置県の時。
廃藩置県の時は、堀江藩として立藩し、堀江県となりました。
しかし、浜松県の取って代わられ、さらに静岡県に吸収されました。
もしかしたら今の時代、静岡県ではなく堀江県になっていたかもしれません。
そんな堀江藩を巡る情景をお送りしたいと思います。
この記事の見出し
大澤基胤(もとたね)の憂鬱
大澤家は鎌倉時代、現在の舘山寺町に堀江城を築城。
陣屋を構え、高家旗本として、室町から戦国・安土桃山・江戸時代、そして明治の廃藩置県まで治めていました。
領地が変わらなかった家は珍しいとされています。
城主大澤基胤は今川に背くを潔しとせず、永禄11年(1568年)12月の徳川家康の遠江進攻に際しては対決する姿勢をとりました。
永禄12年(1569年)3月12日に堀江城の支城であり、基胤の属将が率いる堀川城を徳川家康軍に滅ぼされ、立て籠った農民も惨殺されます。
続いて、25日に井伊谷3人衆に命じて、基胤がいる堀江城を攻撃させます。
よく抵抗して立て籠りますが、徳川方への帰順の条件として「本領安堵(その地を本領の所有権をそのまま認めること)」を約束する誓書を与えました。
以後は、徳川軍の配下として、従軍しています。
徳川家康の嫡男の岡崎次郎信康が、二俣城で自刃するのですが、二俣城の前に堀江城の滞在しています。
もともと今川臣下だった大澤元胤と、今川の血を引く信康なのですから、堀江城は信康にとって最後の安堵の地だったのではないでしょうか。
イラストは、2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」に出演した嶋田久作さん(役名:大澤基胤(もとたね))の似顔絵になります。
ドラマのなかでは、大澤基胤は絶えずこのような苦い顔をされていました。
今川方についていた大澤基胤ですが、堀川城の惨劇や堀江城の攻防を終結させるための和議で徳川方へ帰順するなど、戦国時代には多くあったできごとですが、本人の悩みや苦悩は幾ばくか。
似顔絵ももちろん写真もないので、基胤本人の代わり描いてみました。
慶長10年(1605年)、近隣に武名を轟かせた基胤は八十歳の長寿を全うして他界しました。
さらに、「本領安堵」の誓書のおかげでしょうか、明治の廃藩置県の時まで、大澤家は存続していました。
参考資料:Yahoo!検索 大澤基胤画像
堀川城獄門畷(なわて)
今川方にしたがっていた大澤氏と連携した土豪の新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1,700人を集めて気賀の堀川城に立て籠もりました。
永禄12年(1569年)2月に掛川城を落とした家康は、同年3月27日、再び本坂峠を越えて堀川城を攻め、堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮されてしまいます。
尾藤主膳は堀江城へ逃れたが切腹させられます。
山村修理は本坂道を葭本まで逃れたが自害。
(この墓が、姫街道三ケ日一里塚近くの一里山の本坂通沿いに自刃した山村修理の墓が残っています)
新田友作は逃亡しました。
城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられました。
しかし家康は石川半三郎に命じて、さらに捕虜を皆殺しとし、約700人を女子供も含めて都田川の堤で全員首を刎ねてしまいます。
戦国時代、徳川家康といえど味方には厚く温情を執らせますが、抵抗する者は身分問わず徹底的に抑圧したようです。
逃亡した新田はその後、葭本の金地院に戻り戦死者の菩提を弔っていましたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑されています。
城兵や新田友作が斬首された都田川の堤には、「獄門畷(なわて)」の名が残っており、大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにした」とある。
または、この戦いに参加した大久保忠教が書いた『三河物語』には、「男女ともなで切りにぞしたりける」との記述が残っています。
打った首を、この小川に沿った土手にさらしたので、「ごくもんなわて」と言われるようになりました。
参考資料:現地案内看板
堀江城跡
浜名湖にある舘山寺遊園地パルパル。
園内観覧車の下に堀江城の本曲輪があったとされています。
このあたりは、堀江城は中臣鎌足や藤原道長の子孫にあたる名門・大澤氏の領地であり、堀江城はその本拠地で居城でした。
今川氏の配下から徳川家康の家臣になったとき、戦国時代を生き抜くために、強固な城を御陣山に築きました。
その御陣山に「浜名湖パルパル」や「ホテル九重(2021年10月末閉館)」が造られました。
堀江城は戦国時代のお城ですから、浜松城のような天守閣があるわけではなく、大曲輪や堀切・土塁などで四方を守り、大きな館で構成されています。
城の西側には舘山寺の門前町がにぎわいます。門前町と城の間には掘割があって多くの船が停泊しました。
湖水を渡る水上交通を把握したのが大澤氏です。
江戸時代になってからは、戦国「堀江城」ではなくの政治を司る「堀江陣屋」として廃藩置県の時代まで存続をしてました。
基胤の子、大澤基宿は名門家(藤原北家・持明院統の末裔)として、高い格式で1550石を与えられ旗本になり、慶長8年(1603年)に高家旗本大澤家となりました。
領地は1万石以下(5600石)なので「大名」ではなく「高家」の扱いになります。
明治元年(1868年)明治政府へ領地一万石を架空申告して華族に列したが、領民が蜂起して明治政府の知る所となり、士族へ格下げされました。これを「万石事件」といいます。
藩主と家臣共々処罰され堀江陣屋の施設も霧散することとなりました。
現在、城址附近は館山寺温泉郷として観光開発が進み、城址そのものは遊園地と化して往時を偲ぶものが、なにも残っていません。
参考文献:現地案内看板
宿蘆寺(しゅくろじ)
「曹洞宗藤谷山宿蘆寺」は、大澤家の菩提寺です。
お寺の前の道は、観光地である弁天島温泉から舘山寺温泉を結んでおり、林に囲まれた幹線道路沿いにあります。
石段を上りつめると大きな屋根が印象的な本堂があります。
文正元年(1466年)に佐田城主、堀江下野守久実の開基で、浜松市中区広沢町にある普済寺から命天和尚を開山として迎えた曹洞宗の寺院になります。
佐田城は、15世紀初期館山に越前から出てきた堀江氏によって築城されたといわれていますが、遺跡は残っていません。
最盛期には、三十八ヵ寺の末寺を擁す、西区きっての寺勢を誇っていました。
武田信玄と徳川家康・織田信長との<三方ヶ原の戦い>で敗れ、敗走した家康が宿蘆寺に救われた、という伝承も残っています。
寺の西側には浜名湖があり、以前は深く入り込んで、芦(蘆)が多く宿っていたため、宿蘆寺という寺号がつけられたと言われています。
また、藤谷山(とうこくざん)という山号も昔、寺の背後の山に藤が自生しており、満開の頃には浜名湖を行き交う舟からも藤が見えたほどというところからつけられたとされます。
山門に掲げられている「藤谷山」の額は、徳川光圀(水戸黄門)の師匠である東皐心越(とうこんしんねつ)禅師の書なのだそうです。
ここには、大澤家の歴代当主とその嫡子にかかわる石塔11基が並ぶ墓所があります。
「大澤家墓所」
江戸時代に堀江地域を領地としていた旗本、大澤家の歴代当主とその嫡子にかかわる石塔11基が並ぶ墓所です。
浜松市の指定遺跡になっています。
十代“基宿”から十九代“基暢”までの堀江城主がここに眠っています。
墓所中の石塔には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔(ごりんとう)の2種類があります。
その中の5基は、当時の江戸でみられる石塔と形態や石材が共通しており、政権所在地との関連性が読み取れます。
高禄旗本の墓所にふさわしい風格と江戸時代の墓域を伝えている点が学術的にも高く評価されています。
堀江城主大澤氏の祖は藤原道長、そして中臣鎌足にまで遡ります。
戦国期の武将の多くがその祖を無理矢理に源平藤橘に結びつけていたのと違い、大澤氏の場合はまさしく名家の血流でりました。
基胤の後を継いだ大澤氏十代基宿も武勇に秀でており、関ヶ原合戦では本多忠勝の陣に属して功名をあげ、遠江国敷知郡六ヵ村千五百五十六石を与えられている。
戦国時代末期の当主であった大澤基胤(旗本当主、基宿の父)が徳川家康の遠江支配に協力し、以後大澤家は堀江陣屋(西区館山寺町)を拠点として、領地の経営を続けました。
大澤家は、江戸幕府の中でも、3500石を領し、朝廷の儀式典礼にかかわる要職(高家)に就いており、墓地についても大名に準じる高い格式がうかがえます。
高家とは幕府老中の支配下にあって儀式、典礼、勅使接待、朝廷への使節などを務める役職です。
主に室町幕府以降の名家が選ばれました。
第二十代堀江城最後の城主基寿は高家として幕末の歴史舞台に関わることになる。
文久元年(1861年)には、和宮降下の付添役、慶応2年(1866年)の大政奉還上奏文の伝奏役を務めましたた。
慶応4年では東征軍が遠江に近づくと人馬供出の要請があり、基寿はこれに協力して勤皇の態度を明らかにしました。
これで終わればよかったのですが、廃藩置県の時に大名なり県知事まで登り詰めようと、万石事件を起こし、失脚してしまします。
参考資料:現地看板 浜松市教育委員会 平成29年8月1日設置
ご紹介の施設詳細情報
堀川城獄門畷
住所 | 静岡県浜松市北区細江町気賀 |
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駐車場 | なし |
アクセス | 電車 天竜浜名湖鉄道「気賀駅」から徒歩約6分 |
大澤家の菩提寺「曹洞宗藤谷山宿蘆寺」
住所 | 静岡県浜松市 西区庄内町721 |
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電話 | 053-487-0057 |
拝観料 | なし |
駐車場 | あり |
アクセス | 車 ●JR浜松駅から約40分 ●舘山寺から約5分 |
堀江藩を巡る情景を描いて
今回は、戦国時代の大澤家にスポットを当てました。
大河ドラマの「女城主直虎」にも登場し、今川氏から徳川家へ鞍替えを余儀なくされ、しかしそこで武運を立て、岡崎次郎信康の最後の時を一緒に過ごすなど、うねりの大きな活躍でした。
江戸時代を通して、安定的な領地政治をしていくのですが、明治の激変に翻弄されて、没落していきます。
そのあたりの出来事は、第2弾の堀江藩を巡る情景「万石事件」でお送りしていきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
堀江藩を巡る情景 記事はこちら
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