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徳川家康を巡る情景5「神君 家康」

 2021/06/18
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徳川家康を巡る情景:元城町東照宮にある家康像と秀吉像

浜松での時代は、家康にとって苦労・辛苦の連続でした。
戦国大名相手のいくさは連敗続き、農民相手の悲惨ないくさもありました。
妻と息子を相次いで失いました。

しかし浜松の時代が土台にあったからこそ、天下人に到達できたのでしょう。
ついには、神君まで登り詰めた徳川家康をお送りします。

「徳川家康を巡る情景」は、今回で最終回です。

 

「浜松城」

徳川家康を巡る情景:浜松城

徳川家康が遠江全域を支配下に治めた翌年の元亀元年(1570年)、本拠地を岡崎から引間城に移し、名前も「浜松城」に改めました。

後に「出世城」と謳われた浜松城時代ですが、武田勢と激しい争いをくぐり抜けながら、力を蓄えていった時期なのでしょう。
徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。
三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。

「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。
浜松城の拡張整備に合わせ、家臣団を城下各所に配置し、商工業者を集め住まわせ、新たな城下町を築きました。

武家屋敷は浜松城を中心に、早馬、元目、下垂(しもだれ)、名残り、高町、白山下、後通(うしろみち)にあり総件数は541軒を数えました。

町屋敷は浜松宿駅の傳馬役(てんまやく)、人足役を負担する御役町と職人居屋敷を中心とする無役町から構成されていました。
御役町は東海道に沿って並び、脇通りには紺屋町、利町、大工町、鍛治町といった職人町となりました。

徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。

歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。
藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。

在城中に幕府の要職に就いた者が多くいました。
(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人)

なかでも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦
天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと言われています。

明治維新後、城郭は壊され荒廃していました。
昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建。

翌昭和34年には浜松市の史跡に指定されました。

参考資料:浜松市博物館 特別展「浜松城-築城から現代へ-」
参考HP:浜松城公園HP

 

「若き日の徳川家康像」

徳川家康を巡る情景:浜松城にある家康像

家康が浜松を本拠地とした17年間は、20代後半から40代という人生での壮年期でした。

この銅像は1981年(昭和56年)に建てられました。
やはり浜松人にとって若き日の徳川家康は心の拠り所なのかもしれません
以下が銅像のための文章「銅像撰文」になります。原文のまま掲載します。

銅像撰文
徳川家康公は天文11年(1542年)三河国岡崎城内に誕生した。
父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。
元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。
その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、
その領国は遠江・三河・駿府・甲斐・信濃の五か国に及び、海道一の弓取り武名を馳せるにいたった。
そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。

浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、二百六十年余の泰平の基礎を固めたが、やがて駿府に退隠、元和2年(1616年)薨じた。
乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。
像は浜松時代の若き日の公の姿。
手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。

昭和56年12月20日
徳川家康公若き日の銅像建設委員会
彫刻 水野欣三良
鋳造 河野敏彦
台座 株式会社林工組
参考文献:銅像撰文

 

「徳川家康像と豊臣秀吉像」

徳川家康を巡る情景:元城町東照宮にある家康像と秀吉像

元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身、引間城の本丸跡です。
そこに徳川家康公と豊臣秀吉公の銅像が並んで建っています。

戦国時代、この城に後に天下人となる二人の武将が相次いで訪れています。

 

豊臣秀吉公

天文20年(1551年)尾張の農村をでた豊臣秀吉公(当時16歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされています。
まだ「猿」と呼ばれていたころの16才~18才の3年間、ここ浜松にて、初めて人に仕えていたのです。
言わば秀吉公の初就職の場所が浜松だったという事です。

そしてその「猿」は主人に連れられ、引間城へやって来て皆の前で猿まねをし、城主の家族を笑わせたと史実が残っております(太閤素生記)。
その後、秀吉公は3年間ここ浜松にて修行し尾張国へ帰り「織田信長公」に出会い、さまざまな困難を乗り越え大出世し天下統一を果たしていくのです。

 

徳川家康公

徳川家康公は、元亀元年(1570年)には今川家から独立(当時29歳)。
遠江を平定して引間城を居城として、浜松という地名と浜松城を作っていきました。

この城は期せずして、二人の天下人が、戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となりました。
ここ引間城跡の東照宮と二公像は「出世の街 浜松」を代表する聖地と言えます。
(現地案内看板より:監修 浜松市文化顧問 磯田道史)

 

徳川家康公と豊臣秀吉公の銅像と一緒に記念写真

豊臣秀吉公は天文5年(1536年)生まれ、徳川家康公は天文11年(1542年)生まれで、豊臣秀吉公が年上になります。
2つの像では、豊臣秀吉公が若く造られていますが、この地を訪れた16歳の時の像であり、徳川家康公は29歳の時の像なのですね。

像の真ん中には1人分のスペースがあり、多くの人がここで思い思いのポーズで撮影しています。

看板には多くの著名人もここで出世運を授かっているということなので、こちらに参拝に来た際はぜひこの場所でお好きなポーズでどうぞ!
先日NHKのブラタモリで浜松特集が放送された際も、タモリさんが写真を撮っていたそうです。

参考資料:現地案内看板

 

「浜松東照宮」

徳川家康を巡る情景:元城町東照宮

御祭神は徳川家康公・事代主命・大国主命。

明治19年(1886年)、旧幕臣井上延稜(いのうええんりょう)が本丸跡に、家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、引間城の本丸跡に祀られました。
元和2年4月17日(1616年6月1日)、家康は駿府城で死去し、柩は久能山に運ばれました。
同年12月(翌1617年1月)遺言に従って江戸幕府は久能山に東照社を創建しました。

元和3年2月21日(1617年3月28日)、朝廷は神社としての東照社に「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位。
同年3月9日(4月14日)、さらに神格化された家康本人に対しても正一位を贈位しました。

幕府は日光にも東照社の建設を進めます。

同年4月17日(5月21日)、家康死去から1周忌にあたる日に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現ができました。

その後も各地で700社越える東照宮が造られましたが、明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎます。
現存するのは約130社とされています。
これから考えると、浜松の元城東照宮は最後に造られたもののようです。

昭和二十年、戦災により焼失。
昭和三十四年、社殿・手水舎・社務所等を再建し、今日に至っています。

参考文献:現地案内看板

 

ご紹介の施設詳細情報

浜松城天守閣

浜松城

浜松城天守閣の開城時間・定休日

※若き日の徳川家康像がある浜松城公園はいつでも立ち入り可能

住所 静岡県浜松市中区元城町100-2
電話 053-453-3872
天守閣
開城時間
8:30 ~ 16:30
定休日 12月29日・30日・31日
入場料 高校生以上200円(天守門・天守閣共通)
小中学生無料
駐車場 無料駐車場あり
※浜松城公園駐車場なので、天守閣・天守門までは5分ほど歩きます。
アクセス バス JR浜松駅北口バスターミナルより1,13番のりば「市役所南」下車→徒歩約6分
東名「浜松IC」「浜松西IC」より約30分
公式HP https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/

 

浜松東照宮

徳川家康像と豊臣秀吉像がある元城町東照宮(引間城跡)

住所 静岡県浜松市浜松市中区元城町111-2
拝観時間 自由
拝観料 なし
駐車場 なし
※近隣の浜松城公園無料駐車場をご利用ください。
アクセス バス JR浜松駅北口バスターミナル 13、14番乗り場から全てのバス約10分乗車→「浜松城公園入口」下車→徒歩約5分

 

徳川家康を巡る情景を描いて

徳川家康を巡る情景は今回で終了します。

浜松の住んでいると、その風景が当たり前になって何の感慨も起きません。
ですが浜松城(引間城)やその周辺を歩くと、浜松城や徳川家康関係の史跡名勝がたくさん登場します。

当時の東海道沿いの浜松宿や城下町は栄えていました。
町の名前や観光用案内看板から当時の様子が伝わってきます。

浜松城周辺の徳川家康関連の史跡巡りには、車の移動ではなく徒歩で散策されることをお勧めします。
観光用に色々なコースが設定されているので、健康にもいいし、好奇心が刺激されること間違いありません。

次回ですが「堀江藩を巡る情景」をお送りします。

舘山寺温泉のある場所に陣屋を構え、高家旗本として戦国時代から明治の廃藩置県まで存在していました。
堀江藩が歴史に登場するのは、戦国時代と廃藩置県の時。

明治になって、浜松県ができ、静岡県に吸収されました。
しかし、浜松県以前は堀江県が存在していました。
もしかしたら今の時代、静岡県ではなく堀江県になっていたかもしれません。
そんな堀江藩を巡る情景をお送りしたいと思います。

 

その他の「徳川家康を巡る情景記事」はこちら

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この記事を書いたひと

山下清生

山下清生

浜松工業高校デザイン科卒。
3年間印刷会社でデザイナーを経験したあと、ヤマハ発動機(株)勤務。
定年を迎えましたが、引き続き勤務中。

だから、昔から好きだった絵を描くことを再開しました。
(まだ5年くらいは働きますが・・・)
今、描きたいものが、たくさん目の前に現れています。
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<受賞歴>
2020年 2月 「浜松市芸術祭第67回市展」入選
2020年11月 「日本国際水彩画会秋季秀作ネット展2020」入選
2021年 4月 「第21回日本国際水彩画交流展」入選
2021年 6月 「第4回日美展・絵画部門」入選
2021年 9月 「第45回記念新日美展」佳作入賞
2021年11月 「JIWI秋季国際水彩画展2021」入選
2022年 1月 「浜松市芸術祭第69回市展」入選
2022年 6月 「第5回日美展 絵画部門」優秀賞
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◆絵だけでなく小説の執筆活動にも挑戦していました。

1996年(平成8年) 作品「こちら何でも相談室」創元推理短編賞 
2001年〜2005年頃 掛川市大須賀に在住のミステリー作家の「木谷恭介」に弟子入りして、木谷工房に参加
         「玉沖好也(たまおきよしや)」というペンネームで一部下書きとアイデア出し、表紙を担当させていただきました。
2012年(平成24年) 作品「二俣城備忘録」伊豆文学賞 
2020年(令和 2年) 作品「二俣城攻防録」ふじのくに芸術祭2020文学部門小説の部 奨励賞
2021年(令和 3年) 作品「潮流(万石事件)」ふじのくに芸術祭2021文学部門小説の部 入選